恒例の夏のヨーロッパ仕事旅・・フウテンの寅さんの拡大版・・最初の一週間の簡単報告です。
写真は7月5日パガニーニ記念西垣正信リサイタル この教会のすぐ横で亡くなり、この教会で死亡告知され
その復権も1890年この教会で行われました。
西垣正信
長くだらだらとした一週間報告です。
最後の宣伝のお申し込みなどは
musicアットマーク(変換してください)koube.jp
まで はい お待ちしています・・・
興味深い催しもありますので、宣伝を兼ねてお伝えします。ご迷惑なニュースではなく皆様の暑気払いにでもなればうれしいのですが・・
すこし過密な一週間でいつものフランスらしい綱渡りもありました。
主に4つの異なった催しが同時進行しました。
1, 例年の学校と山の村ソーズでの夏期講習 (もう今年で十回目です)6月28日から一週間
2, ヴィラ=ロボス コンクール (私が審査委員長だったことから、タイトロープ予定となってしまい迷惑をかけました)7月4日
3, フランス国立音楽院の創立百年記念コンサート(私がお世話になった学校、一週間にわたる大きな催しものでした)7月4日
4, パガニーニの死亡告知をしたカテドラルでパガニーニ記念リサイタル 7月5日
フランス国立ニース音楽院創立百年記念予定ページは。
http://www.crr-nice.org/index.php?rubrique=conservatoire&page=eleves2
私自身の演奏は7月4日土曜午後三時からのコンサートで最後の三曲のソロとしてあります。
しかし、私が審査委員長をするコンクールの終わるのが四時十五分、国立音楽院からマイクロバスと4人の職員に拉致をしてもらって丘の上の音楽院に駆けつけました。
音楽院のコンサートシリーズは音楽院の800人キャパのホールで連日行われました。
そのようなわけで、とても聞きたいコンサートも聞くことができなかったのです。聞けなかったコンサート・・
4日の夜はときどき私のアランフェス協奏曲の時に指揮をしてくれているオーディベール先生の企画がありました。
火曜日午後にはハープの催しがあります。なんといってもフォンタン先生が演奏された。天才ラングルメも弾きました。
90才ちかいフォンタン先生の演奏がすごかった〜 と院長の話、聞けなくて悔しい。
金曜日の午後には夭折したスコット・ロスのオマージュ、彼はすでに伝説の天才ですし、ほんとうにすごいものでした。
しかし、その先生が元気でいられることはあまり知られてないかもしれません。そのショーリアック先生の演奏があります。
彼女のレッスンの厳しさを思い出すと私はまだ震え上がるのですが、そのテクニックはいまだにすごいのです。
この二人の九十歳階級から見ると、初日のピアノのタッキーノ先生の八十歳はとても若く感じるから不思議なものです。
その初日には同窓のパリのギャルドンやキャパッティも弾きました。
トロントのシクシク君が来れないのが残念。4日の午後のギターは・・そういうわけで私は演奏をするものの聞けないのが残念。
20世紀ギターの天才イダ・プレスティの孫、しかもお祖母様イダにそっくりの風貌、声、演奏スタイル、も出演しました。
名前だけでなく容姿もそっくりなのです。後にドリニー先生宅で昼食とともに半日話ができました。パリの弟子松本大樹君も来てくれました。
フランスの国立音楽院にギター科ができたのはこのニースが最初のことと思います。
同時にクラブサン科もできました。クラブサンの最初の教授がショーリアックで学生がスコット・ロス。
ギターはドリニー先生が初代教授で最初の学生がたぶん学生がラスキエ君だと(一年遅れて私)思います。
ラスキエ君は私よりはるかにすばらしい才能でした対位法でも作曲でも一位をとりました。彼と私は同じ家で兄弟のように暮らし勉強をしました。
彼は軽飛行機の転落事故で命はとりとめたものの演奏をすることは厳しい。
今回は解説などで参加してくました。音楽院のコンサート最後は私の独奏でしたので、、間に合うかどうか・・私も皆もハラハラ・・
ギリギリ到着したら院長が「お前は何十年も前にも同じことを音楽院のリサイタルでやらかしたよな・・」と叱られました、当時彼はコシュロー院長の秘書でした。
ま、クリスチャンや院長と抱き合ってそのまま舞台に・・引き終わってそのまま、また護送車でコンクール会場に戻され表彰式をしました。
。。。。。。。。。
今回もニース空港に到着するなり、フランスの友人や生徒たちにそのまま車でイタリアまで歓迎大会食に連れて行ってもらいました。
思うと、私がフランスに留学してからいままで一片の差別もこの国フランスの人たちからうけたことはありません。
強いていうと、「日本人だから・・」 と優遇されたことのほうが多かったのです。
今回も長年を経ても当時のフランスの友人や機関が大歓迎してくれます。
この恩恵は、もちろん私の人徳ではなくて、なによりも私たちの先輩日本人学生の立派な業績と人格がこの国で尊敬されていたことも一番にあります。
そして、1970年当時の日本製品や私達留学生が必ずしも極上ではなかった(私の場合です)にも関わらず評価されたことの底流には
立派な憲法をもっていることを皆が知っていたことにもよります。
以前、どこかにも書きましたが当時は国立大学や国立音楽院の招聘状や入学許可証をもっていても、なかなか学生ヴィザを得ることは一般人には困難でした。
しかし、私達苦学生とはべつになんの資格も業績も持たない遊び日本学生(たぶん正規の学生でもなかったのでしょうが)が湯水のように金を使って、
贅沢な生活を顰蹙をかっていました。彼らの多くは政治家の二、三世放蕩息子たちでした。本人に能力がなくともコネで書類も用意出来たのでしょうね。
そんな放蕩息子たちが(放蕩留学でなければきちんと論文や資格などを得ているはずなのですが)日本の総理に相次いで就任しました。
歴史の流れの分岐にある今、私達がどの方向に進めばよいのか? 答えのどちらが正しいかは私にはにわかに判断できません。
右がただしいか左が正しいか・・
私にも意見はありますが、過去の偉人たちさえも悩み揺れた問題です。
しかし、間違ったことが方向があることもあきらかです。
放蕩政治屋が彼らを規制するための憲法をないがしろにすること、これは間違ったことです。
これは市民の私達が道徳の最低規範を捨て去ることと同じです。
この全体主義への道には反対します。
これを許しては私達が立派な先輩から受け継いだものを無にしてしまいます。
私は聞けていないけれど、音楽小学校の百人合奏や親友クリスチャン・ラスキエの講演もあったそうです。
左からペレーニュ院長 アコ・イトー アンリ・ドリニー先生(初代教授)夫妻 クリスチャン・ラスキエ
32ページのプログラムから表紙とギターページ
コンクールはこんなの・・・
アルプスの山中での講習会、このソーズというなにもない村を私はとても愛しています。
空気も人も食べ物も、私には天国そのものです。レッスンは教会や市長室・・村長室かな・・で行われます。
今回はアシスタントにスイスのジュネーブ音楽院の教授 ジェリカ(モンテネグロ)が来てくたのですこし楽をしました。ありがとう。
村の全景です。
ヨニ君のレッスン 彼も天才だな・・と感じます。
大人の生徒も多いのですが子どもたちとの記念写真、、皆、とても上手くなって教えられることも多いのです。でも僕の下手なフランス語のモノマネはやめてほしいな・・
教会でのコンサートのあと生徒のグレゴやフランク それにジェリカ先生たちと即興遊びを夜中まで・・・右はくつろぐジェリカ
朝の村の風景
生徒のケビン左とグレゴ、、二人ともとても小さいときから教え始めました。二人とも身長では僕をはるかに抜きました。
ケビンは先週に国立音楽院の教授試験に合格、、おめでとう! 二十歳の快挙です。グレゴも豊かな才能です。
下はケビンには内緒で彼の十歳のころ秘蔵画像をバラします(笑) ほんとうに立派になりました。
7月5日の日曜日は市内のカテドラルで「オマージュ パガニーニ」のリサイタルをしました。
今回はソルボンヌ大学で音楽学を教えるマチアス・ロジェくんがプログラムに美しく書き下ろしてくれました。お読みいただくと嬉しい事です。
帰国してから邦訳をします。
もうひとつ大切な思いがこのコンサートにはあります。
実はパガニーニの没後百年記念の講演会がこの地で企画されました。
1940年のことです。
当時の市長がジャンメディサン氏が主催し、講演を作家ポール・ヴァレリーが行い、
その講演後に続く演奏は若干17歳であったイダ・ブレスティ先生が行いました。
当時のプログラムを見ると心が震えます。
今回の私のものは県のスポンサーによって行います。
これはたいへん大きなポスターでとても気に入っているものです。
Programme
1940年の晩年のポール・ヴァレリーの講演の内容もとてもきょうみぶかいものでした。その講演のあと
演奏をしたのはイダ・プレスティ先生(16才でした)。
プレスティの孫 イザベラ・プレスティさんとドリニー先生宅の昼食(なんど師匠宅でごちそうになったことか・・いつも感謝です。
パリの大樹君とパリ・ニースの教授のブロンカ君も来てくれて賑やかなことでした。大樹君の写真は下にたくさんあるので省略(笑))
********