オーシュコルンヌ 宮本正清 両先生
オーシュコルンヌ 宮本正清 両先生
これは公開するためのページではありませんので、私的なことから書きはじめます。数年前、フランス
でのコンサートの後に元ニース国立音楽院教授アンリ・ドリニ先生からジャクリーヌさんを紹介されま
した。日本語も話されるフランスのご婦人でした。
「日本に滞在なさったことがあるのですか?」 とうかがいましたら、「父はオーシュコルンヌといいま
して、関西日仏学館にいました。」 私は驚きました。
私が十代のころフランス留学のために学生ビザをとろうとしてもなかなかに許可がおりず
領事館では門前払いでした。もちろん国立音楽院の入学許可も他の書類もすべて揃っていたのですが。
途方にくれて、知人の縁を頼って京都の宮本正清先生を銀閣寺のお宅にたずねました。
先生は見ず知らずの高校生だった私を丁寧に玄関に迎え入れてくださいました。
ロランの多くの翻訳で先生のお名前をしっているだけの高校生の目をじっと見つめて、
「推薦状を書きますから、なんと書いて欲しいですか?」とだけおっしゃいました。私は「お任せしま
す」とだけしか返事ができませんでした。先生は重ねて「オーシュコルンヌ先生にもお頼みなさい」と
照会状を書いてくださいました。
翌日に私は不作法にも連絡もせずに京都松ヶ崎のオーシュコロヌ先生のお宅を たずねました。
カタカナで「オーシュコルンヌ」と書かれた表札の前でためらっていた私を外に出られ
ようとした奥様が気づかれて、「どなたか知れませんが、どうぞおはいりやす」とやさしい京言葉で
声を掛けてくださいました。その翌日にお二人の先生の推薦状を握りしめて神戸の領事館に参りまし
た。いままで門前払いだった高校生はいきなり領事室に通されてコーヒーまで出していただきました。
即刻ビザが発給されました。
オーシュコルンヌ先生と宮本正清先生については宮本先生の奥様の随筆をお読みください。
捕らえられ拷問にあっても日本に貢献された両先生を尊敬してやみません。
http://www.ifjkansai.or.jp/jp/institut4_jp.html
今回2008年に夏期講座の講師とコンサートのためにニース
に来たおりアンリ・ドリニ先生の奥様アコ・ドリニ先生か
ら「オーシュコルンヌ先生の奥様は百歳になられては療養
所でお過ごしです。なんとフランス語を忘れられて日本語
をお話しです。」と教えられました。コンクールの審査、
講習会の間はお訪ねする時間を見つけ出せず、やっと今日
7月7日にアコ先生、ジャクリーヌさんに連れられてお見
舞いと40年前の御礼に参りました。
療養所はニースとヴィルフランシュの間紺碧の地中海に面
した美しいところです。
百歳になられても、その優しさとほほ笑みは初めて声をか
けてくださった時の面影そのままでした。人間というのは
その人がもっている本当の美しさは失わないものなのです
ね。
お見舞いの花束をお持ちしました。それを手にしてオーシュコル
ンヌ夫人は話されなくなったはずのフランス語で「パ アンコー
ル!(まだよ!)」と大きな声で私を叱責されました。まちがいなく
そ れは「葬式の花はまだいらないわよ!」ということです。
1時間ほど話していても話されるのはフランス語(話されなく
なったはずの)でした。しばらくして、英語に切り替わりまし
た。彼女はアイルランドのお父上と日本人のお母上に神戸に生ま
れられたので、英語は流暢だったそうです。私のもっているカメ
ラにとても興味を示されてそれを手に遊びながら話しをされま
す。
私が宮本正清先生にもお世話になったことを話しはじめると断片
的に日本語、しかもうつくしい京言葉を口にされ始められまし
た。
ときどき「先生・・」と云われます。ご家庭ではオーシュコルン
ヌ先生のことを「先生」と呼ばれていたそうです。古い京都の家
庭ではありうることです。
彼女には友人だったクローデルやロラン、宮本先生はそのままに
居られるようです。もちろんオーシュコルンヌ先生も。
会話が2時間近くになると彼女の言葉はほとんどが日本語になり
ました。
京言葉で「先生は二人ともむこうの部屋にいてはります。こっち
にきはりませんな~こんなことははじめてやな。」
とつぶやかれました。二人の先生はオーシュコルンヌ先生と宮本
先生のことだろう、と私たちは推測しました。
お別れのご挨拶をしますと「またおこしやすや」と京言葉で送り
出されました。
西垣正信
コンサート続きは
http://www.koube.jp/2008france/monaco.html